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HISTORYヒストリー

このページでは、「ぷらす整骨院」の歴史を代表である高階の言葉とともに、振り返っていきます。

尊敬していた父親の会社で起きた事件と就職

高校三年生のときは父親の仕事を継ぐつもりでした。父親の仕事は小さな電気工事だったのですが、とても尊敬していました。そのため、働いていた父の背中を見ながら、アルバイトばかりしていました。接客業メインで居酒屋、焼き肉、新聞配達、コンビニ。ありとあらゆる職種を経験しました。仕事をして世の中の人に認められるのが面白かったんですね。

でも、高校3年生の時に父親の会社が倒産したんです。急に自分の進路に悩みました。周りは大学に行くとか言ってるし、就職を決めていた人もいた。自分1人だけ取り残されたような劣等感が芽生えました。

「俺、大学にいくのか?今見つけられる範囲で働ける仕事をしようか?」

そう思い悩みました。

しかし、どちらにいっても中途半端になってしまうなと思いました。それだったら、今持っている手持ちのカードの範囲で人生を逆転したい。その時の思い出したのが昔おばあちゃんに褒められた記憶でした。

小学生低学年の時にばあちゃんの肩こりがひどくて、肩をトントンと叩いたらものすごく喜んでくれたんです。「天才!」とかオーバーに言ってくれて、嬉しかったんですね。人に喜んでもらえることが嬉しいと言うのはもともとあったのですが、この時、人の体を良くして喜んでくれることの原体験を思い出し、この道に進むことに決めました。

地獄の修行時代

最初は地獄でした。完全に師弟関係なので、朝早かったり理不尽なことばかりが多かった。最初はとにかくつらいことばかりでした。「遊びたい!」とか考えたりして集中できない2年を過ごしました。

でも、ある時、経営者の患者さんに叱咤激励されました。その経営者に「若い時の苦労は買ってでもしろ」と言われたんです。差し入れしてくれたり、励ましてくれた人もいました。そんな風に扱ってくれて、目の前の人を本気で助けたいと人に対して感情移入できるようになってきました。今でも思っていますが、自分の師匠は患者さんですね。

「この仕事が天職。」と思った25歳

スイッチが入った僕は、年に数回会う時におばあちゃんに実験台になってもらったりしました。(笑)手技を教えてもらう度に、おばあちゃんの肩をほぐすのに使ってみたりして。

祖母にとって僕は自慢の孫でした。自分が頑張っていても頑張っていなくても変わりなく、プラスな言葉をかけてくれるような優しいおばあちゃん。よくいらないお菓子をもらったりもしました。

一方で、学校の友達はみんな自分の愚痴を言う。その時、一切そんな思いは自分の中にはないことに気づきました。仕事が辛いと世の中の多くの人は言ってる。でも、自分としては休みの日はセミナーで新しい技術を習得したい。

「早く月曜日来い!」

そんな風に考えていました。

あの人をこれで助けられる!本当に患者さんにプラスを。
よっしゃ!とおもえるようにもっともっと良いことをしたい。
仕事を楽しくやるかイヤイヤやるかで人生は違うんだ、そんな風に思いました。

26歳 奥さんとの出会い

その時、仕事だから治療していると言う感覚は全くなく、患者さんに感謝もしていました。励ましてくれたり、差し入れをくれたり。だから患者さんに返したい気持ちが強かったんです。

「恩をどうやって何を患者さんを返すのか?」と考えたら、それは「自分の持っている痛みが早くとれる技術」で返すしかありません。

一方で「目の前の症状をとれる技術は身についたが、どうしても再発してしまう」と言う問題がありました。それをどうしていくのか、が葛藤でした。その時は「日本一の治療家」を目指していました。魔法のように痛みを素早く取る。そんなことができたら素晴らしい。

「え、今何をしたんですか?」なんて言われたり、どこにいっても治らなかった人が、自分のところで治る。そんなことができたらいいな、と。

そんな時、大阪の此花区で院長を任せられている時に、ある方が来院されます。その方がすごく体の調子がよくなったとのことで、娘さんを紹介してくれました。この娘さんが今の奥さんです。私の奥さんは明るいのですが、身体が悪いんですね。関節リュウマチ、婦人科系の疾患、緑内障など色んな症状がありました。

そんな時、初めてのデートで、須磨(神戸)水族館に行きます。ドライブ中に「どんな人が好きなの?」と聞かれました。

僕は思わず、「自分より長生きする人。元気で明るい人」と答えました。そうしたらすごく空気が悪くなったんですね。

その時奥さんがポロリ。「私じゃだめだなぁ。」

しゃべった後で気が付きました。彼女は体が悪いんです。
「あー、しまった。」すごく後悔したあと、こう思いました。

彼女の体を俺がよくする!俺ならよくできる。

奥さんは元々は、スポーツマンで卓球で中国にも呼ばれるぐらいの選手でした。ですが、その後、関節リュウマチが18歳の時に発覚。ラケットが持てなくなり、卓球の道をあきらめることになります。

ブライダルの仕事がしたいという夢があったけど、医者から心無い言葉をかけられたそうです。

「あなたみたいな人は、そんな仕事はできないから、早く結婚して家にいなさい」

それで、スポーツの夢とやりたかった仕事の夢をなくします。

奥さんは負けん気が強かったので、それでも諦めずセールスの仕事に就きます。
着物の販売で新人で日本一を取りました。(100人ぐらい)

そんな奥さんが身内にいると、再発についての思いがより強くなりました。治療だけではなく、治療以前の、食事、睡眠、美容、運動、メンタルヘルス。患者さんの痛みをとるだけではなく、その人の360度ぐるりを解決するようなサービスを提供したい。そんな風に考えるようになります。

28歳開業、父との初めての飲み
そんな28歳。ついにぷらす整骨院を開業します。

その時に父親と飲みに行きました。本当は尊敬していることとかを話したかったのですが、照れくさくて、「なんで母と仲が悪いの?」みたいなこととかを話したりしていました。でも、その時の飲み会で父親がすごい自分を認めてくれているのを感じたんです。無口な父親だったので、多くは語らないのですが、「友達の息子がこの業界目指しているから相談に乗ってあげて」みたいなことを言われたりした。

33歳、照子ばあちゃんの死
33歳の時照子ばあちゃんは亡くなりました。当初、納骨は父1人。奈良から秋田へ車で行ったそうです。とんでもなく時間がかかったはずなので、すごく思いがあったんだと思います。

そして、葬式を終えて、36歳の時、お墓参りにいくことになります。父親と飛行機で墓参りに行きました。今でも忘れられないのは墓の前で手を合わせて拝んでいる父の顔。そのあと、はじめて真剣な「ありがとう」を言ってもらうことができました。僕は恥ずかしくてその時父の目を見ることはできませんでした。